

春風笑一
春風イチロー師匠との思い出について、初心者研修会に初めて参加した後、春風笑一(文中「その人」と表現)の人生観を新しい角度から見直してみるという強烈な印象を与えられましたので、 初めての初心者研修会を中心とした思い出を、次の通り記してみました。
思い出~(その一) 【テレビ番組「ある人生」での鮮烈な出会い】
現在、その人の手元にクリアファイルに入れられたロゴス腹話術研究会によって主催され、同研究会春風イチロー主宰から賦与された四級から二段までの認可証明書六枚と、その他表彰状と感謝状各々一枚ずつあります。現時点から遡る事58年前、1967(昭和42)年クリスマスイブ前夜の12月23日(土)の午後7時30分から7時39分迄の29分間「ある人生」というNHKテレビ番組を、その人は惹きつけられる様にして見ていました。カラー放送で、受信機は白黒でしたが、内容はその人の心を掴んで離さないものでした。その年の世界的ニュースの一つは、衛星放送の開始、国内的にはカラーテレビ本放送の開始でした。「ある人生」には「聖書と人形」という副題が付けられていた事を知ったのは、1978年第三版「腹話術入門(春風イチロー著、ロゴス腹話術研究会発行)によるもので、爽やかな青色の表紙の下半分は、若かりしイチロー師匠が人形ケンちゃんを抱き、ニコニコしながら左手を上げている姿で、腹話術研修会時の写真ではないかと、その人は勝手に想像しました。人形ケンちゃんの後ろには美しい生け花が飾られ、舞台の右横(写真を見る側からは左横)の壁には大判模造紙が貼られていて「○ケンちゃん」「xなあに」「○あのねえ」、それに続く台詞が恣意的編集によってカットされているのに気が付きました。「○あのねえ」の後に続く台詞が何であるか、その人は色々と思い巡らせて見ました。
思い出~(その二) 【12年後の初心者講習会と「愛のどやし」】
その後、地球は12回の公転と4,380回の自転を繰り返した12年後の1979(昭和54)年の8月8日から8月10日にかけて、二泊三日の天城山荘(当時)の向かい側にあるみぎわ荘(当時)で開催される腹話術講習会の折り込み広告が、あるキリスト教関係が発行していた雑誌に綴じられていたのを見て、妻の勧めもあり、その人は思い切って申し込んでみました。腹話術の指導者は、12年前テレビで見た「あの人」ではないかと思いつつ、当時まだ仙台まで東北新幹線は開通していなかった事と相俟って(これは言い訳ですが)、在来線朝一番の特急「ひばり号」に乗車して、途中何回か乗り換え、タクシーを飛ばして、やっと「みぎわ荘」に着いたものの、開始から20分ほど遅れてしまったのは、その人の不徳であり、イチロー師匠の「愛のどやし」の対象者であったに違いないはずでした。怒られるのを覚悟しながら、兎にも角にも遅れて到着したその人を受け入れてくださった師匠には感謝しかありませんでした。初心者研修会には15~6名の参加者で、会場は余り広いと思えなかったものの、イチロー師匠は一生懸命と言うよりも、一言入魂のように、ご自身の言葉にも、人形の言葉にも、物凄い迫力を感じました。時おり「言葉遊び」を合間に入れて、参加者の緊張をほぐしながら、発声法の基本、人形操作の基本、台詞の覚え、術者の所作等々、丁寧にしかも根気よく、例を挙げればきりがなく、時おり「愛のどやし」が飛んできましたが、不思議な事にそれは恐れではなく、「道からそれてはいけないよ」というニュアンスとして、初心者のその人の心には響いてきました。
思い出~(その三) 【強烈なインパクトと腹話術の真髄】
朝食前の早朝礼拝、朝食後の自己紹介、用足しの暇もないくらいのスピード感をもって、午前中の発声練習と人形の基本操作の練習、パターンの練習の意味が良く解らないまま、兎にも角にも、ひたすら師匠の言われる言葉に、緊張と汗をかきながら、無我夢中で、「台本導入のB、その一(イツッ)」の前半を覚えていくのに必死でした。それは緊張どころではなく、何か不思議な超自然的な生理的・心理的驚天動地のインパクトを、その人は体験しました。その場の雰囲気は徹底的なことばによる指導と、時おりイチロー師匠が見せるやさしい親切な言葉と、心を奮い立たせ鼓舞する「愛のどやし」の言葉と、師匠の凛とした姿が、参加者に伝わってきました。初心者にとっては、「強烈なパンチ」を一発食らったかの様な印象を受けて、教会などで行われる修養会と違い、手加減なしの厳しい台本の徹底した覚え(暗記)、確実な人形操作、術者の所作等々、そこにはある意味で武士道の様な厳粛さを感じたのでした。換言すれば、腹話術者と人形との間における台詞のやりとりは、対話劇であり、決して一人劇ではないという事に、その人は気付きました。当然、そこには、言葉に対する責任があり、単なる言葉を、単に腹話術師と人形の間でやりとりするのではなく、そこに(対話の中に)ある意思が働いていなければならないと、その人は強く感じました。
思い出~(その四) 【師匠からの重みのある宣言】
ロゴス腹話術研究会主催初心者研修会(講習会)の二日目から三日目にかけて、悩んだ事の一つに、「明日は研修日の最終日ですので、参加者一人ずつ前に出て台本導入Bイツッを 演技します 」という夕食後の連絡でしたが、それは宣言に近い言葉でした。師匠の重みのあるその言葉を聞いた瞬間、ドギッとなってしまい、軽い気持ちは一瞬にして吹き飛んでしまい、初心者研修会の総仕上げの引き締まった緊張感へと導かれた思いでした。研修会の途中、何度か、春風イチロー師匠はある厳しさをもって初心者に接していたにも拘わらず、単なる腹話術指導者という思いが、完全に崩れ去った自分に気が付いた一瞬でもありました。それと同時に、イチロー師匠や自分も含めた参加者の前で、思い通りに腹話術が出来るだろうかという雑念が入って、不安が心をよぎりましたが、夕拝に参加する事によって心が落ち着きました。
思い出~(その五) 【「共に演技する」という温かいメッセージ】
三日目の朝を迎えました。正しく言えば、「三日目の朝を迎え入れる事ができました」という事で、研修会三日目の最終日でした。礼拝後だったと思いますが、イチロー師匠から連絡がありますという事で、内容は前日の夕食後のおなじもので、「今日、午前中、参加者全員一人ずつ前に出て、 イツッ の腹話術の演技を「します」という宣言に近いアナウンスで、「してもらいます」という表現ではなかったと思います。この「します」という言葉の裏には、「春風イチロー自身も、あなたがた一人一人が、腹話術の演技をする時には、あなたの心の中に入って、あるいはあなたと共に、イツッの台本を演技するからという意味に他ならないという」言葉が波の様に伝わってきました。その為、再び緊張感が生じてきましたが、お腹が空いていましたので、今朝は、どういう内容の食事が出るのだろうか(何しろ、みぎわ荘の食事は美味しかったので)という思いが先行して、緊張感を和らげる事が出来ました。何しろ、各自部屋に戻ってやる事といえば発声練習と人形操作の練習だけでしたので、三日間缶詰め状態の研修会での唯一の楽しみは、食事だけでした。朝食後,直ぐに(大袈裟ですが、用を足す暇もないぐらいのスピード感で)、ちょっとした広い部屋に集まったところ、既に春風イチロー師匠は、参加者たちよりも早く座席に座って待っておられました。厳しさと凛とした姿勢からは、数多くの事を学ばせて「いただいた」というのが正直な感想でしたし、現在もそうです。
思い出~(その六) 【極度の緊張の中での実演と、四級合格の歓喜】
最終日と言っても、実感として、初心者腹話術研修会最終日と銘打っても良いのではないかと思うぐらいの腹話術の実演発表会が待っていました。緊張とドキドキ感の中、イチロー師匠から名前を呼ばれるのを待つ間の各演技者の緊張感が伝わってきましたのは、言うまでもありませんでした。師匠から名前を呼ばれた演技者(この時点で、単に腹話術初心者ではなく、既にロゴス腹話術演技者として伝わってきました)は、人形を抱いて、直ぐに立ち上がり、舞台に向かって歩き、舞台の真ん中の、右利きの演技者は右方向斜めに置かれている椅子に座り、左利きの演技者は左方向斜めに置かれている椅子に座り、演技を始めました。次々と素晴らしい演技が披露されました。いよいよ「その人」の名前が呼ばれるのを待っている間の何とも言えない緊張感、敢えて表現しますと「ピーン」であり、名前を呼ばれた瞬間の緊張感は「ピイィ―ン」でした。前者の緊張感は、やや軽めの、ほんの少し重みが加わった緊張感で、後者はずしんとと重みがくる緊張感でした。心が躍りだすという想定は見事に裏切られました。師匠から名前を呼ばれて立ち上がる瞬間前まで、師匠の「人形を抱いて、会場に入る前から、既に演技が始まっていると思え!」という言葉でした。その言葉が、出番を待って座っている間、(その人の)心の中を占めていたので、想定外の緊張感が走ってしまった事に気が付きました。師匠から名前を呼ばれた瞬間、心は「演技をする」に集中していました(もちろん、既に演技が始まっているという言葉を忘れた訳ではありません)。直ぐに立ち上がり、舞台に向かって歩き、舞台の真ん中に置いてある折りたたみ椅子に座り、椅子は、右利きの演技者用に、舞台から見て、右斜め方向に設置され、腹話術をする者として、初めて舞台に立ち、そうして椅子に座りました。右脚を左脚の上に乗せ、左脚の上に乗せた右脚の関節近くの太ももの上に人形を乗せ、術者は視線を浴びながら「ニコニコ」して左右に軽く会釈して、人形が先に頭をさげ、続いて術者が頭を下げている間、術者は、素早く主に祈り、導きを求め、術者は頭を上げ、次いで頭を下げている人形がクルクルと左右に首を振って、人形が頭を上げ、術者がパターン9の型で、「○ケンちゃん、✕ナアニ、○あのねえ、✕ウン」で始まった演技は、緊張そのもので、気持ちの余裕などはどこかに吹っ飛んでしまいました。「イツッ」の台本の途中の「○お誕生日が来ると(笑い声で)、✕ウン、○誰でも一つ年が多くなるものなのよ、✕ヒャーッ、オドリータ」から、次のNo.6の台詞に移ろうとした瞬間、「はい、そこまで」と、イチロー師匠から声がかかり、その声をきいた途端、合格には至らなかったと、思ってしまいました。全員の演技終了の後、三日間研修最後の礼拝が行われ、祝祷をもって礼拝が終わり、その後に腹話術演技の合否の発表がありました。次々と名前が呼ばれて、「合格」という春風イチロー師匠の声を聞きながらも、自分の名前が、なかなか呼ばれてこないので、やはり不合格であったかと、勝手に自分で決め込んでしまいました。確か残り2~3名というところで、やっと自分の名前が呼ばれて、ドキッとしながら、「馬場熙(ばばひろし)60点合格」という師匠の声を聞いて、前に進んで、ロゴス腹話術研究会の四級認可証明書第534号を、春風イチロー師匠より賦与されたのは、1979(昭和54)年8月10日でした。安堵の思いが身体全体に行き渡り、不思議な感覚に包み込まれ、思わず顔がニコニコした事を覚えています。「人形を抱く前から、腹話術の演技は始まっています」という春風イチロー師匠の言葉は、今でも忘れる事は出来ません。朝5時からの早朝礼拝の祝禱によって、平安を与えられた事も、貴重な思い出でもありました。
思い出~(その七) 【路傍での実践と「春風笑一」の誕生】
三級の認可証明書を賦与されたのは、1980(昭和55)年8月30日で、開催された腹話術全国大会の最終日でした。次いで、1981(昭和56)年8月19日に、二級の認可証明書を賦与され、翌年1982(昭和57)年、一級に挑戦したものの、見事に不合格となりました。不合格はショックでしたが、なぜ不合格になったのか、考えさせられた貴重な時間でもありました。その一つに、日々の発声練習の他に、実行しなければならないことがあるのに気が付きました。それは屋外に出て、路傍伝道者のように(その時、NHKの「ある人生」のテレビ番組でイチロー師匠は、既に、人形を抱いて、野田市朗牧師としてロゴスを伝えていた事を急に思い出しましたので)腹話術を路傍で実演して見る事でした。見てくれる人がいるいないに拘わらず、腹話術の演技を路傍や公園で人の集まりそうな場所を選んで実行してみました。ある農村を、腹話術の人形を抱いて歩いていたところ、道路が交差している辻で、向こうから歩いてくる高校生に出会い、その高校生に事情を話して、一人観客として見てくれるように頼み、彼の前で一対一で腹話術を実演した事もありました。「ある人生」のテレビ番組を見ていなかったなら、そのような事も起こらなかったはずです。1983(昭和58)年8月1日に、一級の証明書が春風イチロー師匠より賦与され、次いで、第三回世界腹話術大会と銘打って開催されたシンガポールでの腹話術大会で、ゲストにイギリス出身のプロの腹話術師ヴァレンタイン・ヴォックス氏を招いての集いで、「初段」の賦与を受けました。春風イチロー師匠より、「お前は英語の教師だから、腹話術を英語でしなさい」と言われていたので、腹話術の演技の中に、男性のアーチデニスや女性のマヘリヤ・ジャクソン等のゴスペルソング歌手が歌っていた「ジェリコの戦い(Battle of Jericho)」を採り入れて、英語で歌い、全員の審査のための演技がおわり、ホテルの部屋に戻ろうとした時、ゲストのヴァレンタイン・ヴォックス師が来られて、共に英語で話を交わしながら、ロビーでお別れしたのは、貴重な体験でした。さらにこの大会に同行して下さり、出演者の演技をビデオ録画して下さった方が、プロの落語家・三笑亭笑三師匠で、その人の演技もビデオに録画してくださいました。帰国して何日か経ってから、ロゴス腹話術芸名「春風笑一」でどうかと、イチロー師匠から電話がかかってきたので、その芸名を拝受しました。さらに、13年後の北海道大会で、ゲストはクリスチャン作家の三浦綾子ご夫妻で、三浦綾子さんより「自我の構図(三浦綾子著)」ご自身のサイン入りの文庫本のプレゼントを受け、大会最終日であったかも知れませんが、春風イチロー師匠より、ロゴス腹話術研究会二段(第34号)の位階認可証明書を賦与され、それを拝受した貴重な時を経験して、現在に至っています。
以 上

