私の宝物・クニチャン

梅澤邦枝

 私が人形を求めたのは1987年。どんな子が来るか…ワクワクドキドキ。怒って眉をつり上げたり困った顔のできる子がほしかったが、予算の都合でワンランク下げた。

名前もつけあぐねて「ケンちゃん」のまま。天城山荘での初心者研修へ。案内を受けたのは、とんぼ先生とケンジ先生の名古屋支部。家での基本練習はほとんどせず。公園や学童保育所に行って練習した。出番は年に1〜2回の教会行事。ほどなく冬眠へ…。強烈な天城山荘での三日間の研修は忘れられなかった。しばらくして…やっぱりやりたいと…。

知多のよう子先生宅へ。しかしふたたび冬眠へと入った。

でも…でも…どうしてもやりたい…全く努力もせずに奉仕とは、最良のささげものでありたいのにいつもメッキのようなとりあえず…ばかり。

今度こそは…と、みたびとんぼ先生にお電話した。その頃、大須演芸場での教会の集会で観てカンちゃんが忘れられなくなった。お話はとんぼ先生のお証しとさんびだった。

「🎵主にすがる我に🎵」あこがれた。

そして初めて教会の例会へ。

「何でもいいからやってみて。」と言われた。うろ覚えのイツツとテレビをやった。

横にはイチコ先生ととんぼ先生が座っておられた。お二人の話し声が聞こえた。「二十五年も経っているのに…きれいねぇ。」と。(ずっと押し入れ暮らしだったから)。ハチャメチャ演技の時も「一人でけいこやるって事は、こういうふうになるのね」ととんぼ先生と話されてた。

こういうふうとはどういうふうなのかしらと思った。ほどなく分った。目の前のお客さんには関係なく…人形と二人だけの世界で見つめ合って話してたその姿である。

とんぼ先生に名前をつけてほしいと言うと、邦枝の「クニチャンにしなさい。こらっクニチャンって自分で自分を怒れるでしょ。」と。そっかぁ…とケンチャンからクニチャンに変えたが…かわいいクニチャンは悪さもしないし言葉も私よりきれい。謝るのはいつも私。

老人設備等での出演が増えていった頃、「クニチャン!クニチャン!」と喜ばれた。

「クニチャンかわいいね」と言われているうちに、私もどんどんクニチャンがかわいくなってきた。

そんな中、クニチャンに大ケガをさせてしまった。雑な私は箱に入れる時、指が上を向いているのに気付かず、フタをギュッと閉めた。ホッペに親指がブスッと!穴があいた。誰よりも不器用でもある私は、とっさにバンドエイドで応急処置を。女の子に間違われてたクニチャンがワンパクな感じになった。

これでもいいかと思ってたら…「あら?!クニチャンそのホッペどうしたの?かわいそうに」と言われるようになった。

何年か過ぎて今年、テレサ先生の診察を受けた。私はホッペの穴はふさいで絵具をチョチョイと塗ってすぐ終えるものと思っていた。

集会の帰りに自宅へ往診して頂いた。

貴重な治療三日間の体験となった。

一休みして、作業にとりかかった。

粘土で穴をふさぐ…乾かす…数時間。

ペーパーで粘土のざらざらとを削りなめらかに

色を落として土台の色を塗る…乾かす(半日)

重ね塗りして乾かす…乾かす

色を入れる。ひと重ねつつ…乾かしながら…

ホッペに紅を…乾かす…くり返しつつ三日目の朝、ニスを買って来る

「これで完成よ」と。少し大人になったようなクニチャン。ワクワク待ってたら(キャーあらー)の声が。何とニスの種類を間違えて下の色がタラ〜と溶け落ちて来た〜。テレサ先生は「ごめんなさいね。入院させてくれない?できたら送るから」と。「ゆっくりでいいですからぁ〜」と私。どこがチョチョイなものか!!そばで見てなきゃ絶対に、感じる事ができなかった。こ、こんなにも大変な手術だったのかぁ…と目からウロコと快よく受けてくださるテレサ先生に敬服しました。

私にはとてもできない事でした。

がぁ…きれいに仕上げて届いたクニチャンの口のゴムが私には少しキツかったのです。(これ位できなくてどうする?)先生にお願いしようと思った矢先浮かんだ言葉…。と取り組みました。

よーし、やってみる!と取り組みました。人には簡単でも不器用な私には…一大決心で頭を外し、口のゴムを切り新らしく結びました。正に四苦八苦…できた!!達成感は半端ではない。できた🎵できたぁ🎵!わ〜い。わ〜い。さらにクニチャンが可愛く思えるようになりました。あの作業現場が見れて感謝!他の事に忙殺されてる毎日…時間を作らねば向こうからは来ない。

今かろうじてロゴスに繋いで頂けてる恵みに感謝しながら今日も頑張りた〜いと思うのんき者です。